3-2.愛を無条件に肯定する社会の創造
人が自分自身だけではなく自分の種を優先して生きられるようになった時に進化の過程で得たしくみが、「愛」です。また、人が社会の中、人の集団の中で生きられるのも、「愛」のおかげです。
自分の幸せや喜びと同じように誰かの幸せや喜びを感じ、自分の不幸や痛みや悲しみと同じように誰かの不幸や痛みや悲しみを感じること、それが愛です。
また、愛に基づいて行動すること、それが善です。
愛があるから、人は互いに助け合い、互いに思いやりを持てます。自分だけでは生きていく力がまだない赤ちゃんも、家族を中心とする誰かの愛があるから生き続けられます。犬の赤ちゃんでも子猫ちゃんでもウリボウでも同じです。種であるには愛が必要です。
本来、人の心にはもともと愛が備わっていて、人の社会は愛に満ちています。
現代の日本の社会のように、愛が満たされづらい世の中になれば、人の愛は行き場を失い、抑圧と葛藤を経て、やがて麻痺し力を失います。そして、誰かの愛が麻痺し力を失うことで、より愛が満たされづらい世の中になり、その負の連鎖が少しずつ広がっていきます。
また、メディアによって人の感じる愛の範囲が無限と呼べるほど大きく広がり、例えば、テレビから毎日のように流れる不幸な誰かに関してのニュースを聞き続けるうちに、人として本来感じるべきはずの愛はずっと解決できないままくすぶり続け、ある人は自分の心を守るために、部分的に愛を感じる範囲を制限します。
経済や法律や政治や福祉やサービスなど、社会のしくみが愛の機能を不完全に代替し、愛が部分的に形骸化して力を失ったという面もあります。
もともとは、それらの社会のしくみの背景にも、人の愛の力があったはずで、それらの社会のしくみの目的も、人の幸せにあったはずです。
ですが、しくみのみが先行し、愛の無い福祉やサービスとなってしまっていたり、ほんの一部の人しか幸せにしない経済や法律や政治になってしまっていたりもします(どんな社会のしくみもサービスも便利な機器も、それが人を幸せにする良いものであり続けるためには、愛の力がともにあることが必要です)。
これらのことの結果として、ある人は誰も愛せなくなって孤立し、ある人は自分の周囲の一部の人間しか愛せなくなって、それ以外の誰かを傷つけ、ある人は自分の国や自分の宗教の仲間のみしか愛せなくなって、その仲間の利益のために仲間以外の誰かを攻撃します。
より多くの人が生きやすい社会の実現のために最も大切なことは、多くの人の心に「愛を無条件に肯定する価値観」を取り戻すことです。
本来、愛は際限なく広く深く無限のものです。成長過程で社会規範や知識を身につけながら広がっていく部分もあるにしても、家族への愛、友人や知人への愛、人類への愛、人間以外も含む動植物への愛、未来の世界に生きる誰かへの愛と、広がっていきます。
もちろん、全てを守ることはできないジレンマもあり、愛する誰かのために他の誰かを少なからず犠牲にすることもあるとしても、多くの人々が愛をより強く意識し、愛ゆえの葛藤をある程度し続けることが大切で、それにより社会のバランスも保たれます。
まずは誰もが、当たり前に、家族を中心とした本当に大切な人を自然と心から愛せるような価値観を取り戻すこと、続いて、家族以外の多くの人たちのことも無視せず同じ人間として愛せるようになること。
その愛の形は、優しさや配慮や礼儀といった日常的なものかも知れません。「ありがとう」とか「元気?」とか「おはよう」とか、一言声を掛けるだけのことからかも知れません。
そして、「愛を持ち続けることが良いことで・当然のことで・自然なことで・推奨されることであるというような価値観」を多くの人が共通して持ち、愛を肯定する社会規範が強く形成され、社会は良い方向に、より多くの人を幸せにできる方向に進んでいけます。