3-1.さぁて、良い社会を取り戻しましょうか

円陣を組む若者のイラスト

人は、一人で生きてはいません。自然の中で動物として生きていた時も、家族や一族を大切にして助け合って生きてきたので同じくそうですし、文明社会の中ではより多くの人が協力し合って暮らし、互いに当たり前に影響をし合います。

さらに現代では、メディアを通じて人は遠くの誰かとも浅く広くつながり、不特定多数の誰かの情報を無限と言えるほど多く知ることになります。これによっても、人は少なからず影響を受けます。

 

人が生きやすくあるためには、その人自身の心がけによって生きやすくあろうとすることがもちろん大切ですが、更には、社会自体が良い方向に変わること、属する人がより生きやすくなるような社会に変わることも大切です。

例えば、「一人一人が自分の心を、つらい境遇・いじめや孤独などに耐えられる強い心にする。その状況を打開できる強い心にする」だけではなく、「いじめや孤独をそもそも生まない社会にできるよう、必要な社会規範を作り出し、それによって社会を作り変える」という方向性です。

例えば、「一人一人が自分の心から愛が失われないように、心を壊してしまわないように意識し続ける」だけではなく、「そもそも誰も愛を見失ったり心を壊してしまわない、人が人の心を持ったままで生きやすいような社会にしていく」という方向性です。

仕事で大変でも、闘病で大変でも、貧困で大変でも、育児で大変でも、介護で大変でも、多くの人の心に愛があり、意味や価値を感じられる心があれば、人は互いに助け合い、配慮し合い、感謝し合い、日常の小さな喜びや人間関係のやり取りの中で充実感を得つつ生きていきやすくなります。

当たり前のことですが、社会のために人があるのではなく、人のために社会があります。

社会規範も文明やテクノロジーも、細かく言えば法律も経済も政治も宗教も、テレビもインターネットもスマホもSNSも、今私の目の前にあるこのコーヒーカップ一つも中に入っているスタバのブレンドも、人の幸せのためにあります。

なのに今、人は、お金や賃金や仕事など経済の奴隷となり、会社など組織の奴隷となり、スマホやインターネットなど様々なメディアや文明の機器や社会のしくみの奴隷となりつつあります。

では、ここであらためて、「人の幸せ」とは何でしょう。

それはまず、「愛する誰かとともに、人としての心を持って生きること」です。そうすることで日々の生活の中でのたくさんの幸せや喜びや充実感も自然に感じられ、そうあることが幸せと感じられるように、本来の人の心のしくみはできています。

なぜなら、人は生物であり、動物だからです。

例えば、貧困や過重労働に悩み続ける、生存が脅(おびや)かされるような恐怖や不安を受け続けるなど、心に過度のストレスを受け続けることは、人としての心を維持することを難しくさせますので、多くの場合、幸せにつながることではありません。

逆に言えば、当面の衣食住が足りて愛する誰かといられていて過度なストレスもなければ、動物としての心のしくみから考えても、「ある程度は幸せ」です。「今日も家族が健康で、ご飯が美味しくて、お風呂に入れて、好きなことができて、布団で寝れて、誰かと笑い合えて、明日の生活の心配もとりあえずは無くて、幸せ」です。

また、このような「日常的な幸せの形」に関しての社会規範がある程度しっかり定義されることも、より人を幸せにできる社会の条件となるのでしょう。

一方で、「人は慣れるもので、比較によって感じるもの」ですので、当たり前になり過ぎた幸せは、それを意識し続けないと感じづらくなり、見失いやすくなります。

過去の宗教社会においては、例えば、毎日の家族団欒での食事に関して、食前のお祈りで神様に感謝をすることなどで、「当たり前の幸せへの意識」というものが強く維持されていたのかも知れませんね。

 

社会がどう変わり、世界がどう変われば、そこに生きる多くの人々が幸せに生きられるか。すなわち、「多くの人間が人としての心を持って・愛という心のしくみを維持しながら生き続けることができるような社会にするためには、どうすれば良いのか」を考えていきます。