2-2.まずは、厄介なメディアというものの攻略から
【ちょっと復習】
「スマホとかSNSとか・・正直めんどくさくナーイ?」のところでも触れましたが、現代社会はメディアからの情報や刺激にあふれています。街中をただ歩いていても、都会であれば特に、様々な情報や刺激を勝手に得続けることになります。スマホが一台あれば、決してすべては把握しきれないほどの情報と刺激に指一本で簡単にアクセスできます。
そして、テレビ・インターネット・スマホなど、様々なメディアを通じて情報や刺激を日常的に大量に与えられ続けてしまうことは、動物としての人の心には過負荷で、人の心はそれを真正面から受け止めて耐え続けることができるようにはできていません。
心を健全に保ち続けるためには、無限に近いほどにもたらされる情報や刺激を、自分の心にとってちょうど良いようにコントロールすることが大切です。
「人の幸せのための社会じゃなかったっけかな?」のところでも触れましたが、テレビやインターネットやスマホといった情報媒体・通信媒体などのメディアが「人の役割の代替」や「人の心の機能の代替」をしてしまうことによる影響の問題もあります。
例えば、テレビやインターネットなどが無かった時代、人が「誰か他の人の動いている様子」を見られるのは、自分の身近で実際に生きて動いている誰かを直接見ることによってのみでした。現代では、テレビやYouTube動画などが、それらを代替していますよね。
「誰かの声を聞くこと」「誰かの情報を知ること」などに関しても同様で、メディアや文明の機器がそれを代替します。音楽CDでアーティストの声を聴く・SNSで友人の情報を知るなど、私たちが日々当たり前にしていることです。また今後は、仮想現実が進化し、「誰かの匂いを嗅ぐこと」や「誰かの体温を感じること」「誰かと触れ合うこと」などに関しても、それらをメディアが代替する日が来るかも知れませんね。
このような各代替によって、人の心は不完全な形で(かつ時には一方的に)満たされます。
メディアに限らない「人間関係の代替」も例示します。例えばある人は、大好きなアイドルの握手会に行って、魅力的な異性の声を聴きたい・誰かと触れ合いたいといった欲求の一部を満たし、それによって、家族や友人と過ごしたり実生活で恋愛や結婚をしたいと思う心の力の一部が失われてしまうかも知れません。人間関係を築き保っていくチャンスが、誰かの現実の人生の中で失われてしまうかも知れません。
もちろん、現実の人生を充分に大切にしている上で様々な代替を適度に楽しむことは、人生を多様にすることで、それは必ずしも悪や罪にはつながらないことなのでしょう。メイドカフェ通いでもネコ動画探しでもギャルゲー課金でも、それが心や人生に深刻な悪影響を与えるかどうかは、程度・度合いの問題です。
もっと日常的には、私たちが普通にテレビやインターネットを見たり普通にスマホを使ったりする中でも、刺激的な異性の映像や罪の意識に関わるような情報・刺激などにより、心は強く影響され揺さぶられ続けます。
なぜなら、例えば「刺激的な異性の映像」や「誰かの死に関しての不幸なニュース」のような情報や刺激が得られる瞬間というのは、本来の動物としての人間の一生の中では、生きるか死ぬか・子孫を残せるかどうかを決する瞬間だったからで、当然、心を奮い立たせて人生の中での全力を発揮する必要がある瞬間だったからです。
この情報過多社会の中で多くの人たちは、心をうまく抑圧し、情報や刺激にうまくフィルターをすることで、刺激的な情報によって心が揺さぶられ過ぎないように心のバランスを保っていますが、それでも影響を全く受けない訳ではなく、やはり、人によっては、人の代替や人の心の代替を伴う過度な情報や強烈な刺激といったものが、ストレスの原因・心の疲れの原因・心をゆがめられる原因となります。
【人の心は限られた情報と限られた刺激の社会で進化してきた】
人の心は現代のような「つながり過ぎた社会」にぴったりと適するように作られてはおらず、限られた情報と限られた人間関係だけの現実のみが目の前にある小さな社会での進化を経て、つちかわれてきたものです。
例えば、人の心は、愛のしくみも嫉妬の感情も自然に当たり前に備えていますよね。
一族を中心とした小さな集団の中で全員で協力しながら種として生き続けるために有益だった愛という心のしくみも、他の誰かより競争優位に立って個として生き延びるために有益だった嫉妬という心のしくみも、つながり過ぎた今の社会では、人の心に厳しい影響を与える時があります。
ある人は、ニュースを見ていて、民間人が巻き込まれた紛争や事故など誰かの不幸に関しての情報を得たりして、こういったメディアなどがなければ感じずに済んでいたはずの不快感や悲しみを大量に得続けてしまうかも知れません。
別のある人は、大活躍する一部の人間のことをテレビやYouTubeやSNSで見続け、不要な嫉妬を感じ続けてしまうこともあるかも知れません。
「自分の周りのできごとしか知らず感じずに済んでいた小さな社会」では、自分の行動で状況を打破できることも多かったですが、「メディアで伝えられる広い社会や世界」に関しては、そうはいきません。遠い国での紛争を自分がちょっと頑張れば解決できる訳ではなく、世界的な活躍をちょっと自分が頑張ればできる訳でもなく、解決できない心のモヤモヤは溜まっていきます。
心の不快感は解決できないままに悶々として溜まり続け、ある人は心に言い訳をしてバランスを取ったある種の妥協や調整をし、別のある人は心を守るために感じることや考えることを部分的に遮断し、心を麻痺させていきます。
例えば、誰かが事故で死ぬような不幸なニュース映像を見ても何も感じなくなってしまっている人は、メディアに慣れ過ぎ、メディアによる影響から心を守るために、心を部分的に麻痺させ、本来の愛にあふれた形からは心をゆがめています。これは必ずしもいけないことではなく、心を守るために必要なことなのですが、気を付けないと愛のしくみを失う原因の一つになるかも知れないことです。
肌身離さず、無限とも言える情報と刺激に触れ続けることができてしまうメディアであり、かつ、今となっては代表的なコミュニケーション手段ともなっている「スマホ」に関しては、人の心への影響は更に深刻です。
例えば、ほんの数百年前までは、「人が誰かの表情を見たり誰かの声を聞いたりする機会」は、その誰かと直接会うことによってのみでしたし、「誰か他の人と情報のやり取りをする機会」も、その誰かと会っての直接の会話によってのみでした。
人は集団で生きる社会的な動物として進化してきましたので、人にとって「仲間である自分の周囲の人たちからの意識や評価」というものは、とても気になるものです。他者を強く意識することは、社会的な動物である人間にとって、自然なことで必要なことです。
現代のこの社会では、過去のどの時代よりもはるかに、多くの人は常に誰かと広く浅くつながり、常に誰かから評価され、またそれを意識し続けています。
自分が意識する誰かの範囲も、以前は、現実に関わる家族や友人を中心とした限られた人たちだけを意識して、その人たちからの評価だけを気にしていれば済んでいたのが、それはそれは「ホントに人の心はこれだけ多くの人の評価を意識し続けることに耐えられるものなのかな?」というくらいに広がっています。
自分の人生への評価・自分のした仕事への評価などだけではなく、細かいところでは自分の投稿したSNSの内容に対しての「いいね!」も自分自身を高めてくれる評価に思え、それを麻薬のように快感に感じ、ある人は現実の人間関係や現実の自分の人生を犠牲にしてまで、病的に中毒のように誰かからの評価を求めます。
InstagramやTwitterでの「いいね!」などは求めないという人でも、意識の持ちようによっては、誰かから自分にメールやメッセージの連絡が頻繁に来るかどうかということ自体が「自分への周囲の人間から常に下され続ける評価」だと感じられてしまうかも知れません。スマホを手にし、そういった評価を心の奥底で気にし続けることで、心への負担・ストレスを得続けて、目に見える傷ではなくとも心は蝕まれ続け、心が休まることなく疲れ果ててしまう人もいます。
スマホを手にし、常に不特定多数の誰かからの連絡や刺激が今にも来るかも知れなくてドキドキするし・・来なかったらそれはそれで何となく寂しいし・・、といった心の状態自体が、心の持ちようや感じ方や意識のしかたによっては、人を絶え間ない緊張の中にさらし続け、心をずっとずっと疲れ続けさせてしまいます。
一方でまた、スマホを手にしていないと不安で落ち着かず、新着メッセージなどの確認をしたくてたまらない。現実に一部の人はすでに、このような「スマホ依存」とも呼べる窮屈で自由のない心理状態になってしまっています。
スマホやネットやSNSの他の功罪として、別のある人は、想像力がなく愛もない誰かのネット上の心ない書き込みによって深く傷つけられてしまうかも知れません。ネットやSNS上では相手の顔が見えたり自分の素性がわかったり必ずしもしないだけに、現実の人間関係には必ずあるような「人への配慮」というものが、しっかり意識していないと薄れがちです。
しかし、傷つけられた人の心は間違いなくそこにあり、ひどい時には、ネット上のいじめや中傷による自殺などすら起こる。・・なんだこれ?さすがに、冷静に考えても異常です。便利にはしているかも知れないが、人を幸せにするどころか、不幸にしてはいないか。
もし、スマホやネットなどが存在し無い社会だったら、人の心はどうなるでしょう?
まず、間違いなく、自分の家族や友達といった本当に大切な人たちとの実際に会っての交流を、もっと大切にできます。
誰かからの連絡にすぐ対応しないといけない緊張にさらされ続けることもなく、誰にも評価されず無視されているという不安や劣等感に無駄にさらされることもなく、自分の心をもっと大切にして心の余裕を持って生きられます。
【メディアの影響を知り、心を保てるようにバランスをとる】
少し、熱ーく長ーくややこしーくなってしまいましたが、つまりここで何が言いたいかと申しますと、「人の心へのこのような様々な影響を理解した上で、各メディアがもたらす情報や刺激との関わり方の調整を意識して自分でするということが、情報過多で刺激過多な社会に生きる私たちには、とても大切なこと」ということです。
例えば、メディアによる情報と刺激に本当に病的なほどに疲れたら、「通信機器も情報機器も無い、自然豊かな中で、自分の本当に大切な誰かと一緒にお互いを大切にしながらしばらく生活すること」などが、おそらくは人間としての自然な心の状態を取り戻すための一番の薬になります。
・・そこまで極端な手段でなく、もう少し私たちが現実に実現可能と思われることとしては、例えば、テレビを付けない日・スマホの電源を入れない日・ネットにつながない日を決めるだけでも、心はだいぶ休まります。 情報や刺激が過負荷な状況にあることを自覚し、その過負荷な状況をうまくコントロールできるように、物理的・心理的にそれらの情報や刺激から適度な距離を置くことが大切です。
一部の宗教などで実践されているような安息日のデジタルデトックス(スマホもネットも決して使わない日を決めること)というものも、情報や刺激のストレスから自分の心を遠ざけ、心の平穏を保ちやすくして、現実の自分の人生と自分の心と自分の大切な誰かの心とを大切にするのに役立っているのでしょう。
こういった工夫や配慮や心掛けにより、心の平穏を保ちやすくしたり、人として大切な心のしくみも維持しやすくできます。
私もこどもの頃に、「ファミコン(古い!年齢がバレますね・・)は一日一時間」「テレビも一日一時間」と両親に言われたりしましたが、大人の心の健康にもそれがホントは良いのかも知れませんね。さらには、「スマホも一日一時間」「ネットサーフィンも一日一時間」にする方が、人によっては、自分の人生をもっと大切に、心に余裕を持って、楽しく生きられるのかも知れません。
それくらい、現代社会では、人々の優先順位が、メディアというものに極端に偏ってしまっています。
情報や刺激・メディアによって心が疲れていると感じたら、それらから心理的な距離・物理的な距離をとって心のバランスを調整することで、自然な心の状態に近づいていくことができます。