1-5.それ意味なくない?いや、全部意味あります
ここでは、「人にとっての意味や価値」について、定義をしていきたいと思います。
私のところにご相談を寄せて来られる方の中には、自分の人生や自分の過ごす毎日に意味や価値をうまく感じることができていない人が少なくありません。
物質主義の現代社会で陥りがちなワナなのでしょうが、金銭・モノ・合理性などを求め過ぎると、人にとっての本当の意味や価値は、むしろ感じづらくなります。
本来、人の欲求の目的は、常に、人の心にもたらされる何かです。社会のしくみや文明の機器は人の心ではないので、金銭もモノも手段であって、目的そのものにはなりえません。
社会や文明とは、あえて言えば、「合理的なしくみを通じて、多くの人の心に価値や意味を多く大きく安定して生み出そうとした試み」です。
それに対して、本来の人の心というものは、物理的・合理的な観点ではムダでいっぱいです。
【物理的にはムダが多くとも】
例えば、人が何か新しい知識を得て、何かを新しく記憶すること・・。記憶などしなくとも、いつでもどこでも必要な時にスマホで「O.K.Googleさん」に聞けば教えてくれるので、ムダと言えるかも知れません。ちなみに私はiPhone派。
例えば、人が何かを考えたり、判断したりすること・・。ビッグデータに基づいてAIに判断させた方が、ずっと合理的な判断が可能と思われますので、これもムダと言えるかも知れません。
例えば、人が何かを感じたり求めたりすること・・。一人一人の人間の生存や生活に必要なことや必要なものは、より良く全体のバランスを保てるように作られた社会のしくみ(歴史的には失敗続きですが理想的な社会主義や計画経済?)に判断されて自動的に与えられれば良いとも合理的には考えられます。
感情や欲求といった人間の心の動きは膨大なエネルギーの浪費で、軋轢(あつれき)や葛藤の原因ともなり、これまた大きなムダと言えるかも知れません。
このように、物理的・合理的にはムダが多いように思える人の心のしくみですが、人を人として成り立たせているものも、紛れもなく、この非合理的でムダの多い「心のしくみ」です。
そして、このムダの多い「心」というものこそが、人にとって唯一の意味や価値の指標となるもので、人にとって唯一の真理や真実となるものです。 デカルトさんも言っています。「我思う、故に我在り」です。
自分の心に生じる全ての現象に意味と価値とを認めなければ、また、誰かの心にもたらせる全ての現象に意味と価値とを認めなければ、人は究極的には、自分の存在する意味や価値をも、自分の生きる意味や価値をも感じられなくなってしまいかねません。心に生じる全ての現象に意味と価値とを認めることで、人は、自分の生きる意味や自分の存在価値を肯定できます。
【意味と価値の確認】
例えば、同じ栄養を得るというだけの行為なのに、わざわざ苦労して求めて美味しいものを食べることに意味や価値はあるのでしょうか?
もちろん、あります。より美味しいものを食べたいと心が求め、実際にそれを見たり香りを感じたり食べたりすることで感覚をし、幸せな気持ちを得るというその過程と結果の全てが、人の生きる意味となり価値となるもので、実際にも意味や価値を人の心の中に素直に感じさせてくれるものです。・・あー、某バーガー屋さんのワッパーが食べたくなってきた。
・・ゆっくりと休むこと・美しいものを見ること・大自然に触れること・誰かと心を通わせること・誰かと触れ合うことなどなど、それは人の心にもともと備わっている心のしくみによる心の動きや、価値観を得たりした結果として形成されている昇華後の心のしくみによる心の動きだったりと様々ですが、求め考え感じる全てに、意味があり価値があります。
もう少し極端で根本的なところまで考えていきますね。お付き合いください。
例えば、いつかは自分が死んで失ってしまうのに、一生懸命になってお金を稼ぐことに意味や価値はあるのでしょうか?
もちろん、あります。「お金を稼ぐためにする仕事を通じて、誰かに価値を与えて、誰かに喜びや幸せを感じさせること」「稼いだお金を使って、自分の愛する家族を幸せにすること」など、自分の心に生じさせた全てに意味や価値があり、また、誰かの心に生じさせた意味や価値は「愛のしくみ」を通じて自分自身の心にも相乗的に大きな意味や価値を感じさせます。
稼いだお金自体ではなく、その過程と結果が人の心にもたらす様々な心理現象に意味や価値があります。物理的な「モノ」や「現象」は全て、唯一、「自分自身を含めた誰かの心に何かを生じさせること」によってのみ、人にとっての意味や価値を生じさせます。
もう少し続けます。例えば、いつかは人類が滅びてしまうと予想できるのに、家庭を作ってこどもを育み、子孫を残すことに意味はあるのでしょうか?
もちろん、あります。生物としての素直で純粋な本能でそうしたいと望み、そのために考えたり行動したりし、望んだことが叶って幸せを感じることにも(もし望んだことが叶わなくて別の何かを感じることにも)、やはりそこに意味や価値があります。
【ここでのまとめ】
心が機能してさえいれば、私たちの何気ない日常の全てに意味や価値が見い出せます。あるいは心さえ機能していなくとも、更には死んでしまった後であっても、その誰かの存在が別の誰かの心に何かを生じさせれば、そこには意味や価値が生じています。無意味な人・無価値な人など、誰もいない。
日差しを暖かいと感じること、自然を見て美しいと思うこと、美味しいものを食べること、好きな音楽を聴くこと、本を読んで知識を得ること、誰かに優しくし優しくされること、大好きな人に笑顔で挨拶をすること、それが誰かの心を少し幸せにし、それを通じて自分の心も少し幸せになれること。こういったことの一つ一つが、大切でかけがえのない、人間の生きる意味や価値の全てです。
経済やモノを優先しがちなこの物質主義の社会の中では軽視され忘れられてしまいがちですが、人にとって意味や価値がありそれを実感させるのは、物理的なモノやできごと自体ではなく、常に、それを通じて人の心に生み出される心理現象の方です。
「意味や価値といったものの判断判断を、物理的・金銭的な損得によってではなく、人の心を基準として行う」ということが、人が本来の心を保ちながらこの社会の中で生きていくためにとても大切なことで、また、人がこの社会の中で生きやすくあるためにもとても大切なことです。
【補足:心の力を取り戻す】
心は、使わなければスポイルされます(甘やかされて力を失い、弱くなります)。例えば、あまり深く考えずに惰性でずーっと作業のようなスマホゲームを繰り返していたりしても、心はスポイルされて、力を失います。
また、自由を完全に奪われ、考えることや求めることや感じることをことごとく禁止されたような環境で生き続けた場合なども、それこそ心を守って生き続けるために、心は麻痺し、能動的な力を失います。
逆に、心は鍛えれば筋肉のように強化できます。
感じる力や考える力などを一度は弱くしてしまった心も、最初は意識してそれらを取り戻して定着させることが必要ですが、あとは自然と段々と、生きている意味や価値を実感しやすい、素直で健康的でアクティブな心に強化していくことが可能です。
今日、今、この瞬間からでも、意識次第で心は力を取り戻せます。
例えば、あまり抑圧されずあまりゆがんでいなかった「こどもの頃の心」のような、自分の心に生じる現象に素直に意味や価値を感じることができ、それを素直に求めることができていた心の力を取り戻すことができます。
当たり前ですが、「心を大切にすること」が、「人としての心を保つこと」につながります。