1-6.人の幸せのための社会じゃなかったっけかな?
先におことわりしておきたいのですが、私がここで行いたいのは文明批判などでは決してありません。
「文明の恩恵ばかり重視し過ぎず、人の心を重視することとのバランスをもっととった方が、多くの人が個人としてもより幸せを感じられるようになり、社会としてもより良い社会になれるのではないかなー?」ということの提案です。
では、参ります。
【メディア】
例えば、テレビやインターネットなどのようなメディア (情報機器・情報媒体全般のことを、メディアと呼びます) が発達していなかった時代、人が何か情報を得られるのは、直接誰かの話を聞くことによってがほとんどでした。
その状況では、ある人にとって、その「自分に情報を与えてくれる人」の価値は非常に高かったはずで、「誰かと交流したい」と求める親和欲求なんかも「誰かに認められたい」と求める承認欲求なんかも互いに満たされたはずです。
次に例えば、電話やメールやSNSなどのようなメディア(通信機器・通信媒体全般のことも、メディアと呼びます。双方向のメディアが当たり前の世の中ですしね)が発達していなかった時代、人が誰かとコミュニケーションできるのは、直接誰かと顔を合わせ、言葉を交わし、時に肌を触れ合うことによってがほとんどでした。
同じく、その状況では、ある人にとって、その「自分がコミュニケーションを交わす相手となる人」の価値はお互いに非常に高かったはずで、「誰かと親しくあり、誰かと心や体で触れ合いたい」と求める親和欲求なんかも互いに満たされたはずです。
と、このようにシンプルに考えても、メディアが発達していなかった時代の方が、もちろん情報の速度と量は劣っているのでしょうけれど、人の心にとっては良いことづくめでハッピーな影響の方が多そうですよね。
【メディアが人を代替し、人の心をも代替する】
それに対して現代社会では、文明の機器が「人の役割だったはずの部分」の多くを代替しています。その結果、物理的には便利で効率的になるとともに、「人が直接に誰か別の人と関わることによって感じられていたはずの価値や意味」の多くが失われてしまっています。
例えば、ほんの数十年前からあっという間に変わってしまったこととして、スマホやインターネットやテレビなどのようなメディアの登場がありますが、これらが世の中にもし無ければ、人はもっともっと、「現実の人と人との関わり合いや触れ合い・顔を合わせての会話やコミュニケーションの全て」を大切にできます。
自分が愛し、意識し、コミュニケーションを取る相手が、SNSやメディア上の無数の誰かに薄く分散されたり一方通行になったりするのではなく、現実に関わり合える人たちに厚く集中し、家族や友達や恋人といった自分の大切な人たちのことを、お互いに本当に心から大切にできます。
現代社会において少なくない数の人は、スマホやインターネットやテレビなどで情報や刺激を便利に大量に得続けることで心を疲れさせるとともに、メディアを通じた人間関係を優先させて現実の自分の人間関係をないがしろにしてしまっています。
大好きな家族と日々何気なく会話をしたり楽しく過ごしたり笑顔でコミュニケーションをとったり・・、ホントはそういったことが人にとっての幸せの中核で、それを多くの人が心の奥底では理解し感じているハズなのに、メディアを含めた他の何かの方をより優先してしまっています。
ある人は、YouTubeやテレビで活躍する現実には関わり合いのない異性のことを追いかけるのに夢中になり過ぎて、実際の自分の人生の中での恋愛のチャンスを失ってしまうかも知れません。
メディアとは別の例としては、ある人は、家族がいることのぬくもりをペットに代替させることで、実際に自分の家庭を築きたいという欲求の一部を弱いものにしてしまうかも知れません。
ある人は、自動販売機やAIロボットに自分の仕事を奪われて、人とコミュニケーションをする楽しさや人の役に立つ仕事をできていた充実感、感じられていた人生の価値や意味の一部をも、失ってしまうかも知れません。
ある人は、「常に自分のすぐそばにいて今にも連絡をしてくれたり永遠に連絡をくれなかったりする気まぐれな不特定多数の人間」という大変不自然で迷惑で気になる存在を肌身離さず持っているスマホに代替させ、それを常に意識し続けることのストレスで心を疲れ果てさせてしまうかも知れません。
これら全て、何かに人の代替や人の心の機能の代替をさせることによる功罪(良い点とともにもたらされる良くない点)です。人の心が犠牲になってしまっていますが、物理的に見える犠牲ではないので、無視されがちです。
もちろん言うまでもなく、人の役割の代替や人の心の役割の代替をいろいろなものにさせることによって、社会を便利にしたり効率的にしたりすることは、必ずしも悪いことではないのでしょう。
メディアや様々な機器の発展により、人の得られる情報や刺激は多く多様になり(それはもう人の心の許容量の限界を軽々と超えるほどに)、新たな人と交流できる機会も増え、作業は効率化されて、「人がしないといけないこと」は減って、一部の社会では余暇を人が自由に使えるようになり、人生の楽しみ方も自由になって多様化しましたよね。
ですが、これらの様々な代替による人の心への良くない影響というものを無視し過ぎてしまうと、人の心が犠牲になってしまい、本末転倒な結果になってしまいかねません。本来の目的は、人の心、人の幸せです。
SNSを使ったり、ペットを愛したり、アニメに夢中になったり、芸能人を追っかけたりなど、代替を楽しむのも適度であれば、人生を豊かに楽しくすることなのでしょうし、社会の中のごく一部の人が過度な代替をするくらいであれば、「個性的な人」というレッテルが貼られるくらいで済むのでしょうが、あまりにも多くの人たちが人生や人の心を犠牲にするほどの過度な代替をし続ければ、多くの人の心のバランスも、社会のバランスさえも崩れます。
【代替の利用やメディアによる影響と心とのバランスをとる】
人の心、それも特に自分が現実の人生の中で関わっていく家族や友人を中心とした大切な人の心を大事にするということが、この「人の代替や人の心の機能の代替にあふれた社会」の中で、人が健全な心を保ちながら生きていくためには大切です。
例えば、便利に合理的に量や速度を求めるメディアを通じて代替的な人間関係や刺激や情報を「量を優先して」求めるばかりではなく、時には、現実に自分が出会える人間との関係の中で互いの心に意味や価値を生み出し合えることなどを「質を優先して」求めること。
フォロワーからの「いいね!」よりも、自分の近くにいる大切な家族の幸せや笑顔を求めること。
例えば、便利に場所と時を選ばずにできるSNSで連絡を取るのも良いですが、時には、実際に大切な誰かと時間と場所とを合わせて直接会い、顔を合わせて心からの声や表情が直接心に届き響くように伝え合うこと。
メールも電話も手紙もSNSのメッセージもZoomもSkypeも、直接誰かと顔を合わせて会っての心の通じる会話を完全に代替することはできません。情報の伝達は果たされるかも知れませんが、コミュニケーションをしたい欲求は一部不完全な形で満たされるだけです。
例えば、必要な情報をネットで便利に調べるのも良いですし、AIに何かの合理的な判断をさせるのも良いですが、本当に大切なことや好きなことに関しては、自分で覚えたり自分で考えたり自分で感じたり自分で判断したりすること。
人の心、自分の心に生じさせる全てが、人にとって唯一の意味や価値の基準となります。それを機械やメディアに代替させれば、代替させなければ心に生じさせることができたはずの意味や価値が、一部分なり大部分なり失われるのです。
代替に便り過ぎずに、現実の人の心を大切にする、こういった日々の小さな心がけや行動の繰り返しが、人としての心を保ちやすい・自分の生きている意味や価値を実感し続けやすい・より生きやすい生き方にもつながります。
便利な文明の機器も社会のしくみも、もともとは手段であって目的ではなかったはずで、それらが存在する目的は、社会に属する多くの人の心がより幸せに豊かになることにあったはずです。残念ながら、その優先順位は崩れ掛けてしまっています。
「自分自身の心や自分の大切な人の心を充分に大切にできている」という前提の上で「代替の恩恵にあずかって効率的で合理的な文明の機器やメディアを使う」といった優先順位を持ち続けることが、社会の主体が人であり続け、様々な文明の機器や社会のしくみの目的が人の幸福であり続けるためにも大切です。