2-3.続いては、意識の強さのコントロールに挑戦
仕事、お金、将来、過去、健康、周囲からの評価、人によっては成績、学歴、容姿、人間関係、人生の成功などなど、人は様々なものを求めたり様々なことを意識したりしながら生きています。
「意識をする」ということは、何かを気にかけ、何かを自分の心の中で重要な位置に置くということで、人が生きていくために重要な様々な何かを意識することは、言うまでもなく、当たり前で大切で人が生きるのに欠かせないことです。
動物として生きていた時の人間も「今日の食べ物の心配」や「家族が欲しいと望む意識」などを強く持ちながら生きてきたので、子孫を今まで残すことができました。
現代社会の私たちは、動物として生きていた時よりもずっとずっと多くのことを意識しながら生きています。
それによる良いこと、もちろんあります。
過去に失敗した何かを意識しておくことで、同じ失敗を繰り返さずに済みます。自分にとって本当に大切な何かを自分の心の中で位置付けて、こだわりや執着を持ち、日々を精力的に信念と強い気持ちで努力しながら過ごすことで、夢を叶えたり好きな仕事に就いたりなど、大きな何かを成し遂げることができます。
一方で、強過ぎる意識は、自分の心を追い詰め、うまく生きるのを難しくしてしまうこともあります。将来への不安・周囲からの評価・過去に犯した過ち、どれも強く意識し過ぎると(あるいは全く意識しな過ぎても)、人生をうまく生きることが難しくなります。
心の問題や精神的な病の多くは、心の個性の強さの程度の問題によるものです。例えば、何かを意識し過ぎるその傾向も病的なほどに強くなってしまえば、日常生活や人間関係や人生にまで深刻な影響を及ぼし、「社会生活で問題を起こしにくい一般的な心の状態(健康とされる状態)」との大きな乖離(かいり)によって、「病気である心の状態」としてカテゴライズされます。
ここでは、現代のこの社会で人が強く意識し過ぎて自分の心を追い詰めてしまいがちないくつかの事柄について触れ、意識の持ちように関しての考え方の例を挙げさせて頂きます。
【お金というものへの意識】
ほんの数千年前はそうだったはずの、動物に近い生活をしていた時代の人間の生活環境は、当然ですが、お金や経済に左右されたりはしません。・・ありませんでしたからね♪
ですので、シンプルに考えて、今の時代では人の心に強い影響を与えていると思われる「お金や経済といったもの」から少し意識を離してみることによって、人の心は今よりも少し、本来の心に近いバランスを取りやすくなります。
具体的な実施策の一つとしては、「何かを考えたり何かを判断したりする時に、お金や経済といったものを思考や判断の基準にし過ぎている自分を意識的に少し是正すること」があります。
つまり、「金銭的に損か得かという基準」のみに偏り過ぎて、「人の心に生じる現象の意味と価値とを大切にする基準」を見失いがちな自分を、自覚し、意識し、是正し続けることです。
何かを判断する時に、「損か得か」ではなく、「自分の心が本当は何を求めていてどう感じているか」ということに耳を傾けて決めることです。
平たく例を挙げますと、「少し高いけど、美味しそうだから食べちゃえー」や「せっかくの旅行だから、いつもより贅沢しちゃえー」や「大切な人を喜ばせたいから、奮発してプレゼントを買っちゃえー」です。
意味も価値も、人の心の中にこそ、あります。
【お金や経済に関連して・・後天的に獲得する罪と善の基準】
例えば、過度の浪費は現代社会では不快(というより不安?)の感情をもたらします。「浪費することにより、自分が将来の生活で困窮したり家計が立ち行かなくなったりする可能性が高まる」と予測できるからでしょうね。
また逆に、その不快や不安の感情で心を追い詰め過ぎてしまうことを避けるためか、過度な浪費が快感になるように心に倒錯的なしくみが作られることもあります。大人買い、無駄遣い、後で反省することになるとしても、その時は高揚感があったりゾクゾクしたりするかも知れません(これは、カライものや怖いものの危険を感じることで快楽物質が脳に生じるということにも近いのでしょうかね)。
更にはその逆に、社会に属する多くの人が積極的に浪費をして好景気が機能するという経済社会のしくみを考えると、「適度な浪費はむしろ善」で「過度な節約こそが罪」と言えるのかも知れません。
つまり、経済とは、人の心をどの程度の強さでお金に執着させるかによって社会の資源(物資・エネルギー・労働など)の分配バランスをできるだけ最適にして、多くの人の心にできるだけ多くの価値や意味を生み出すか、という試みです。
【仕事というものへの意識】
続いての例です。現代の大多数の社会で多くの人にとって、「仕事」というものは人生と切っても切り離せないもの。一方で、大自然の中で生きていた動物としての人間から見れば、これも必ずしも自然ではないものです。
言うまでもなく、多くの人は経済社会の中でお仕事をしてお金を稼いで日々の生活を送っていますが、全ての人が愛に満ちた本来の人間の心を保っている社会であれば、理想的には、経済のしくみなどは不要になります。
対価としてのお金をもらえようがもらえなかろうが、全ての人はお互いの幸福や喜びを自分自身のものとして感じ、それを自然に求めて自分のするべきことを「仕事」として能動的に助け合い、それで社会が機能し成立します。
もちろん、現実には、経済というしくみのおかげで社会のバランスがある程度合理的に調整されている面もありますし、仕事があることで自分の人生をより充実させて生きられている人も多いです。
少なくとも現状では、経済という社会のしくみは有用なもののようではありますので・・、大切なのは、度が過ぎないように・心を大切にできるように、経済やお金に偏り過ぎないように、心のバランスや意識のバランスをうまくとることです。
例えば、悪い例としては、愛のしくみよりも経済やお金などへの意識を優先し過ぎた結果、自分自身以外の誰にも価値を生まない利己的な仕事をしている人、ましてや誰かを不幸にして誰かから搾取して誰かを食いものにすることでお金を稼いでいる人がいます。
残念なことに相変わらず減らない「オレオレ詐欺」とか、「振り込め詐欺」とか・・、仕事として従事している人もいますが、これらは人の心の本来のしくみから考えれば、悪と呼べ、罪の意識を喚起させる行為で、愛を麻痺させ、心をゆがめる行いです。もちろん、法律的にも犯罪ですしね。
また一方では、「仕事をする」ということ自体が社会の中で奨励され評価され過ぎ、何らかの理由でそれがうまくできないことに過度な劣等感を感じてしまう人がいたり、逆に、人として大切なものを犠牲にしてまで仕事に没頭してしまう人もいたりします。
なかなか全ての人を幸せにはできない経済のしくみのひずみで、働いても働いても生活が楽にならず、困窮している人たちも沢山います。経済に頼るのみでは社会を充分に良くすることも大多数の人を幸せにすることもできず、やはり、その補完のためには、人が人を思いやり合える愛の力が必要なのでしょう。
常に最も大切なのは「人の心」です。仕事であれ文明であれ金銭であれ、心を壊してまで重視すべきものなど本来はないのに、この日本の現代社会の社会規範は、希薄なくせに、人の心を大切にするよりも、金銭や個人の快楽や見栄や義務などを優先させようとします。
経済に偏りがちで仕事に偏りがちなこの社会の社会規範の中で生きる上では、これらから時々でも少しだけでも心の距離をとることで、より楽に人らしく生きられる面があります。
【他者というものへの意識】
ほんの数千年前の人間にとって、自分の属する社会の全ては、自分の家族や一族のみで完結する限られた規模のものでした。これは、把握できる情報が限られていたからです。
それに対して、現代社会では、特にメディアというものを通じ、自分がつながることができる社会の規模は、日本全体・人類全体・世界全体と、非常に大きなものになっています。
広くつながり過ぎた社会やそれに関する情報は、知見を広げて事実を認識し、全体を見てのより正しい選択ができるようになるためにとても有益です。地球は一つ、世界はつながっていますので。
しかし一方で、例えば、私たちは毎日のように、テレビのニュースなどで不幸な事故や事件に遭ってしまった罪もない人のことを知り、心を日々疲れさせていきます。地震で大怪我を負った誰かの姿を見て心を疲れさせ、テロに巻き込まれて家族を失った誰かの姿を見て心を疲れさせます。心はストレスを受け続けます。
SNSの中でも現実の学校や会社などの人間関係でも、多くの人が「誰かの顔色」や「誰かからの評価」といったものを常に気にしながら、とても窮屈に不自由に生きています。このようなことでも、人の心は疲れ、ストレスを受け続けます。
広くつながり過ぎた社会やそれに関する情報といったものは、野生動物としての人間であった時には決して与えられなかったもので、それゆえ、人の心はこれらの無限に近いつながりや膨大な情報を真正面から受け止めきれるようにはできていません。
ですので、この情報過多社会の中で生きていく上では、自分の心に負担を掛け過ぎないように、必要に応じて自分の意識を社会全体や多過ぎる他者から少し離してみることで、本来の動物としての人間が把握し守ろうとしていたはずの、例えば「家族を中心とした範囲」に愛を強く集中させるといったことが役立つのかも知れません。
人類全体への広くつながった「不偏の愛」をある程度大切にする一方で、自分自身の心を壊してしまうほどには真っ直ぐに受け止め過ぎないようにし、心の負担を適度に軽減できるバランスをとることで、心を麻痺させることなく、健全な心のしくみや愛の力を保てます。
愛する対象を無限に広げ過ぎてしまうと、その愛が強い人にとっては守りたい・ともに幸せでありたい誰かが無限に多過ぎ、同様に、例えば、嫉妬心が強い人にとっては競争をして勝ちたい対象が無限に多過ぎ、承認欲求の強い人にとっては認められたい相手が無限に多過ぎ、ゆえに、このつながり過ぎた世の中では満足はしづらく生きづらいのです。
情報が限られ、人間関係が限られた中で生きていた時の方が、よほど、心は満足させやすく生きやすかったのでしょう。「井の中の蛙、大海を知らず」と言いますが、大海を知らないままの方が、カエルちゃん本人にとっては満足ができて幸せを感じられやすいのかも知れません。
例えば、愛を強く感じる対象を、自分の家族や自分の友人や自分が現実に関わる人々を中心にした範囲にある程度集中させれば、生きやすくなることがあります。もちろん、周囲の人間を無視するのではなく、「比較的」集中させるという意味でです。
冷たい言い方になってしまうのかも知れませんが、テレビのニュースで知る誰か一人一人の不幸や死の全てを、自分の親や子の不幸や死と同等に捉えてしまっていたら・・、おそらく、本来の愛にあふれた人の心のままでは、とてもとても心が持ちません。
愛の大切さをずっと論じてきたのに矛盾する感じになりますが、限られた情報だけが得られていた野生の状況とは違いますので、愛の範囲や強さを少しゆがめたりして調整しないと、メディアなどのせいで生きにくいことがある世の中なのでしょう。
【未来というものへの意識】
安全や秩序がある程度保証されている現代社会は、本当に確実な未来まではわからないにしても、将来のことが比較的予想しやすい世の中になっています。
このような状況も、感情と欲望に素直に突き動かされて日々その瞬間を全力で生きてきた動物としての私たちの心から考えれば、とても特異な状況と言えます。
もちろん言うまでもなく(このパターンの言い回し、多いですね・・)、このような環境で生きることのメリットもたくさんあります。
ある程度安定した秩序と安全の中で将来が期待できるからこそ、人は無計画になったり自暴自棄になったりせず、貯蓄をしたり技能を磨いたり、計画的に将来を設計したりして、多くの時間や努力が必要なことを成し遂げることができます。
また、今が苦労している大変な状況の時でも、明日の自分・一年後や五年後の自分などを想像することで、大変な今を耐えて乗り越えられる強さを持つことができる人もいます。
ですが一方で、将来や未来が想像でき過ぎることによって、日々、不安にさいなまれて現在を楽しめなくなってしまう人も少なくはありません。
経済的に困窮する将来への不安、家族の老後への不安、今の仕事がうまくいかなくなってしまうことへの不安、日本経済や地球環境が立ち行かなくなってしまうことへの不安。
十年後、今の会社大丈夫かな。明日の上司との打合せ、気が重いな。今のまま赤字の家計が続いたら、将来どうなるんだろうな。
人の心というものは、自分がより確実に生き延びることができるように、不安や危険や恐怖を避ける方向に本能的に強くバイアス(偏り)が働きます。 なので、多少楽観的に将来を見るくらいで、ちょうど良いとも言えるのかも知れません。
将来を大切にする自分と、今日の今この時を生きる自分とを、ともに大切にできるよう心がけることで、「動物としての人間の心」と「社会に生きる理性的で計画的な人間の心」とのバランスをうまく取って、より生きやすくなることがあります。
【過去というものへの意識】
人は誰でも失敗をします。一度しかない人生を前向きに活かすための方法論・人生哲学的なことで言えば、「過去の失敗を現在と未来とに活かすかどうか」で、違いが出ます。
また、愛を備えている人間は、自分以外の誰かの経験を自分自身の経験として重ね、例えば、悲惨な過去の戦争のことを知ることで、それを教訓として今後に同じ過ちをしないように活かすこともできます。
人は誰でも、人生のうちで悲しい出来事を経験します。大切な誰かとの死別などの悲しい出来事やそれに起因する感情などは、乗り越えるのに時間や努力を要することも多いですが、やはり、現在と未来とを活かすためにその悲しい出来事や経験や感情をどう扱うかで、違いが出ます。
特に、大きな罪を犯した時、人の心は岐路に立たされます。
一つの道は、心を強く持って、誰かを傷つけ悲しませてしまったことへの罪の意識などをしっかりと受け止め、反省と教訓を抱えながら、同じ罪を犯さないように前向きに生きるか。
もう一つの道は、罪の意識に耐えきれずに自分を無意識のうちに正当化し、倒錯した心のしくみを作り出し、犯罪や罪につながってしまうような心を強化させたり、心を麻痺させて極端にゆがめたりしてしまうかです。
更には後者の場合、同じような犯罪を繰り返すようになってしまったり、同様の犯罪を更にエスカレートさせてしまうこともあります。
また、現代は、今まであったどの時代よりも、誰かの過去や自分の過去が鮮明に記録され、多くの人の目に触れ、記憶にも残る時代です。FacebookやInstagramなどのSNSは、その最たるものですし、WEBに一度掲載された写真も、永遠にどこかに残ったりします。
こういった記録や記憶が残ることを意識し過ぎて理想の自分であろうと無理をしたりすると、心が縛られて自由を失い、やはり窮屈になって生きるのが苦しくなることもあります。
ですのでなおさら、私たちは、心が過去に縛られ過ぎないように、現在と未来とを活かせるように、心のバランスを取った方が良い時もあるのでしょう。
【ここでのまとめ】
意識しなさ過ぎれば生きられないし、意識し過ぎれば生きにくい。夏目漱石さんも言っています、「とかくに人の世は住みにくい」。この社会の中で人がうまく生きていくには、意識しつつも意識し過ぎない、そのバランスが大切です。
例えば、真剣に何かを意識し過ぎて心が疲れた時には、理性的な人間としての意識を一度緩めて、動物としての本能に近い欲求や感覚の方に従います。
無条件で、生きることを望み、自分の心に価値や意味を生み出すことを望み、欲求や感覚や感情に素直で、人を愛することが自然とできる、心の奥底に確かにいる自分自身の心の声に耳を傾けます。