1-4.常識がわかりづらいのよ、この社会

奇抜なファッションをした男女のイラスト

人の心は大自然の中での進化の過程でできたものなので、もちろん、この社会にピッタリと適応できるようになど、できていません。

逆もまた然りです。この社会ももちろん、そこに属する全ての人たちが生きやすいようになど、できていません。

ですので、人は、社会の中で生きていきながら、我慢をしたり価値観を得たり葛藤をしたり、時には昇華や倒錯をしたりもし、もちろん良い意味でもですが、心を整形し成長させ、ゆがめ続けていきます。

 

【心をうまくゆがめやすい社会】

ところが、ここで一つ問題になることがあります。それは、社会の状況・環境・性質などによって、「その社会で生きる人たちがうまく自分の心をゆがめられるかどうか」が大きく左右されてしまうということです。

これは、私たちが今暮らしているこの日本の社会において、特に顕著な問題となってしまっているであろうことでもあります。

例えば、宗教や思想などに代表されるような、「善悪や価値といったものに関しての社会規範」がハッキリと成立している社会では、その社会規範が必ずしも完璧な良いものではないにしろ、人は自分の属している社会に合うように自分自身の心をゆがめやすく、社会もまた、うまく心をゆがめることができた人にとって非常に生きやすいものとなります。

特定の宗教を全ての人が共通に強く信じている社会では、社会共通の間違いのない善悪の価値基準を、こどもの頃から家庭でも学校でも社会でも与えられ続け、人は迷うことなくスムーズにその価値基準を得ることができます。

「朝と晩に毎日お祈りをしなさいネ」と言われて育ち、現実にもみんながそれを実行している社会であれば、誰もが迷わずに当たり前のこととしてそれを受け入れられます。善悪の基準や幸せの条件もハッキリとし、「親切な良い人間であり続けていれば天国に行ける」「善い行いをする自分のことを神様が常に見てくれている」と全員が信じ続けている社会では、犯罪につながる悪い考えなどは、誰の心にも起こりにくくなります。

また、その同じ価値観を多くの人たちが持った社会の中では、「その同じ価値観に基づく善行」「その同じ価値観に照らし合わせて価値の高い言動」などは、同じ社会に属する自分の周囲の多くの人間にも当然高く評価され、認められることができます。そして、うまく価値観を獲得できた多くの人の心の中で、自分が社会の中でより生きやすくなるこれらの価値観は自然と強化されていきます。

この過程を繰り返す中で、社会規範自体も、より強固なものになっていきます。はい、安定したステキな社会のいっちょあがり。

このように、絶対的な共通の価値観・社会規範が強く存在している社会では、人の心はうまくキレイにゆがめられやすく、社会に抵抗なく溶け込むことができ、人はとても生きやすいのです。

 

【心をうまくゆがめづらい社会】

では、私たちの生きている、この現代日本の社会ではどうでしょう?

私たちの生きている現代日本の社会は、宗教や思想などの絶対的な共通の価値観はもちろんなく、社会規範も自由過ぎて多様過ぎて弱いものとなってしまっている側面があります。多くの人の人生において、「何を大切にしてどう生きることが正解か?」は、親も教師も誰も教えてくれません。

あえて言えば、「全てが正解で、何でもあり」という傾向の強い社会規範です。またその割に、「異質を嫌い、全員が同じであることを求める」という・・考えてみると訳のわからない社会規範になってしまっているのかも知れません。

結果として私たちは、まるで一人一人が宗教の教祖や思想家でもあるかのように、迷い続け、悩み続け、考え続けることを余儀なくされます。サルトルさんの言う「自由の罪」や「自由の罰」ってヤツですね。

そして、このような「アヤフヤ社会規範の社会」では、人が価値観や思想の選択を簡単に誤ることで、人として本当に大切な心のしくみをも失って生きづらい状況になってしまう危険性というものも、相対的に高くなります。正しい道が見えにくいがゆえに、「足を踏み外しやすい社会」になります。

現代のこの日本の社会は、快楽的な娯楽にあふれ、「しなければならないとされていること」は過去の時代よりも比較的少なく、物質的な豊かさや時間の余裕は過去の社会よりも比較的多くありますので、信念と呼べるような強い価値観を持っていなければ簡単に堕落(だらく)できてしまいます。

来る日も来る日も一日中なんとなくYouTubeやSNS見続けたりスマホゲームし続けたりすることに依存するような個人的でちょっとした堕落もあれば、誰かを不幸におとしめてしまう犯罪につながるような悲しい堕落もありますが、強い社会規範のないこの社会は、比較的、道を踏み外しやすく堕落しやすい社会です。

そして、このような堕落は、家族を心配させたり誰かを不幸にしたりしてしまうという意味では、罪となり倒錯となる可能性も高いものです。「堕落」と「倒錯」は、その欲求が受動的で弱いイメージの言葉か能動的で強いイメージの言葉かという違いを除けば、性質としては近い心理現象と言えるのかも知れませんね。

日本社会全体を見ても、「成人したらそろそろ実家を出て、結婚をしてこどもを産み育てることが、良いことで幸せなことで素晴らしいこと」「きちんと勉強をし、就職や起業をして働いて人の役に立つことが、正しく誇らしいこと」といった過去には強くあった社会規範(良い社会規範であったかどうかは別にして)が弱くなったために、既存の人口バランスや経済バランスが崩壊しかけているという面があります。

 

お話を戻します。この今の日本の社会では、「人に優しくあること」「家族を大切にすること」などを奨励するような、人の本能である「愛のしくみ」と同じ方向性を持ち、人が幸せに生きていくために欠かせない大切で当たり前な価値観でさえ、強い社会規範として必ずしもうまく存在できてはいません。

このことが、少なくない数の人たちを生きづらい状況にさせる原因となってしまっています。

 

【価値観の再獲得と社会規範の再構築】

では、どうするか?私たちはどうすればよいのか?どげんすれば良かとじゃろか?アヤフヤな社会規範さんには現状では期待できそうもないので、良い価値観を自分で選び取り、自分の心の中に価値観を作り出し、定着させていくしかありません。

ぼんやりとした社会規範しか持たないこの現代の日本の社会で生きる私たちにとっては、「愛に関すること」や「人にとっての意味や価値に関すること」など、少なくとも中核となる部分では、正しくて良くて自分が本当に生きやすくなるような価値観を自ら選び取り、意識して強く持ち続けることが大切です。

そして、こういった価値観を多くの人たちが共通に持つことで、それはやがて社会規範となり、そこに属する人たちが現実に生きやすい・足を踏み外しにくい社会の創造にもつながっていきます。

多くの人を幸せにできるより良い社会であるためには、例えば、多様な個性の尊重や生き方の選択の自由などは、このような「基本の部分での良い社会規範が強く存在している」という前提の上で求められるべきなのでしょう。